hachiko28’s blog

世の中のなんか変だなや、これってどうなの?と思うことなどの記事を書いています

バツ1、バツ2とバツは離婚の度に増えるというのは大いなる誤りです

世間では、離婚する度にバツが増えると考えられていますが、実はそうではありません。

そもそも、このバツとは戸籍謄本の戸籍から抜けた時に戸籍謄本の名前にバツ印がつけられるものです。

では、戸籍から抜けるとはどういう場合のことでしょう。一番わかりやすいのは死んだ時、死ぬと戸籍がなくなりますから戸籍にバツ印がつきます。あとは、おそらく養子になり、親の戸籍から抜けた時。そうそうこの親の戸籍から抜けるとバツ印がつきます。

そのほかどういうときに親の戸籍から抜けますか?そうです、一般に女性が結婚して夫の戸籍に入ると、親の戸籍に書かれていた自分の名前にバツ印がつくのです。さらには、夫のほうも結婚すると新たな戸籍が作られるため、親の戸籍から抜け、親の戸籍にあった自分の名前にバツ印がつけられ、除籍になります。

つまり、離婚してバツ印がつくのは夫の戸籍の自分の名前にバツがつくということなのです。ですから、Aさんと離婚して一たん親の戸籍にもどり、次にBさんと再婚し、その後Bさんとも離婚すると、まず、Aさんと結婚した際に親の戸籍にバツ印が付きます。(バツ1回目)、そして、Aさんと離婚した時にAさんの戸籍にバツが付きます。(バツ2回目)次にAさんと離婚して親の戸籍に復し、Bさんと再婚すると親の戸籍にバツが付きます。(バツ3回目)そして、Bさんと離婚した時、Bさんの戸籍に書かれていた名前にバツが付きます。(バツ4回目)

このように、2回離婚すると戸籍上はバツ2ではなく、正確にはバツ4であるということになります。今の説明、少し間違っている部分や、離婚後親の戸籍に戻らなかった場合などで少し事情が違うかもしれませんが、少なくとも、離婚の回数だけバツが単純に増えるのではないということをご理解いただきたいのでした。

 

高校球児の思い

私も甲子園を目指して3年間野球をやりました。

敗れてその先に進むことができなくなった時に学年ごとにいろいろな思いに至ったことを思い出します。

まず、1年生の時は、4月にその高校で野球を始めてまだ日が浅く、3年生のこともあまりわからない状況で、敗れたその日の感慨もあまりありませんでした。

2年生の時は3年生はこれでもう高校野球ができなくなるんだという思いと、これでもう一緒に野球ができなくなるんだという思いに打ちひしがれたものでした。

自らの最後となった3年の時は何か呆然として、これで終わったかとしみじみ感じていたのを覚えています。

 

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戦争いやだ

 

8月15日も過ぎてしまいました。戦争の悲劇をまたまた再認識させられました。

皆で声を上げようではありませんか?戦争はもう二度といやだ。

だから、戦争をしやすくする憲法改正も大反対だと。

あの戦争で失った尊い犠牲があったからこそ、今の繁栄があるなんてうそっぱちだ。

あの無駄な犠牲で尊い命が失われなかったら、その人々の手によって、今よりもっと素晴らしい日本が出来上がっていたに違いない。

あたら、有為な人材を見通しを誤った政治家と無能な指揮官の愚かな命令で死ななければならなかった人々の無念に思いを致し、戦争を拒絶しよう。

 

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高校野球の県外出身者の割合に基準を設けてはいかがでしょうか?

高校野球の熱戦に興奮しています。

しかし、県外出身者を多く抱えるチームが強いのはいかがなものでしょうか。

私の地元にもベンチ入りの大部分が関西出身者で占められ、勝利インタビューでは関西弁で語るというのに非常なアレルギーを催します。県の代表チームならば県出身選手かせいぜい隣接県出身者であってほしい。それが地元の人々の偽らざる気持ちです。地元の選手が出場するから地元として応援したいんです。遠い関西出身者が大部分のチームなんて地元のチームじゃあありません。そんなチームが甲子園で優勝したってちっとも嬉しくありません。わが県では数十年前に地元の選手と指導者で出場して準優勝したことがあります。ところが、関西人で成り立つ外人寄せ集めチームが近年準優勝しました。同じ準優勝でも価値がまるで違います。地元のチームじゃあないんですから。こんな批判を受けるような学園経営が如何なものか?です。選手が悪いのではありません。学校が悪いんです。100歩譲って指導者は強豪地域から招へいしてもいいじゃあありませんか?でも、選手は地元選手じゃあないと。

ご意見ください。

 

憲法改正論議について

安部総理やその祖父である岸信介元総理は現行憲法はアメリカに押し付けられた憲法だから改正しなければならないと言っていますがこれは明らかな誤りです。現行の憲法を作成する際、確かにアメリカの意向が反映されたことは事実ですが、日本側にも憲法づくりに参画したメンバーがあり、そのころのアメリカとのやり取りが日記に残されています。

日本は先の大戦で近隣諸国に極めて大きな被害をもたらした事実があります。そのため、こうした近隣諸国や諸外国に信頼される国になるためには、日本は永久に戦争を放棄し、軍備を持たないということを宣言する新しい憲法を作らないと世界の国々から相手にされないと考え、敢えて戦争放棄と軍備を持たないことを盛り込まなければならないと日本人自らが考えてその案をアメリカに提示して認められたものであるというのです。その原案を見せられたマッカーサーは、日本人はそこまで覚悟を示すのかと、滂沱の涙を流して感動したといいます。このように、当時の日本人がこれからの日本について熟考し、導き出した考えによって作り出された憲法です。そんな生半可な気持ちで憲法を改正したがる「戦争したがり」の総理大臣や防衛大臣にこの国を任せておいてもいいと思いますか?

 

今注目の将棋について

藤井四段の活躍で注目の将棋についてです。別にたいした話ではありません。みなさんご存知のことですが、将棋では相手の駒を取ると、自分の駒として使うことができます。一方西洋のチェスでは、相手の駒を取っても使うことはできません。

このことからこんな東洋と西洋の思想の違いを感じ取ることができます。

中国や日本では、戦に勝利すると降参してきた相手を自軍の戦力に組み込み軍を増強します。

一方、西洋では必ずしもそうではないと思われますが、戦った相手は皆殺しにするというやり方が多かったために、将棋とチェスの取った駒の扱いに違いがあるのではないか?

と思ってみましたが、事実はどうなのでしょうか?

明治維新の戊辰戦争について

 戊辰戦争と言えば官軍である薩摩・長州軍が会津を攻めたことで有名ですが、数十年前、確か萩市から、会津若松市に対して最早過去の憎しみを乗り越えて友好を結びましょうというアプローチがあったのに対して会津若松市はつれなく拒絶したということがあったように記憶しています。未だあの恨みは忘れられないということなのだろうと思ったことを覚えています。

その後、戊辰戦争のことについて知る機会があり、会津の人々の心には到底拭い去ることのできない言い伝えがあることを知りました。

それは、会津戦争では官軍側も会津側も多くの戦死者を出しました。戦争終結後も会津領内には夥しい戦死者の遺体が累々としていたようです。勝った官軍側は味方の死者を速やかに回収し手厚く葬ったようです。

ところが会津兵の遺体を葬ることを薩長は許さず、同朋の遺体が腐乱していくのをただ遠目に眺めるより仕方がなかったということです。

死せる人間を葬ることを許さず、敗者の人間の尊厳を踏みにじる行為を強要した薩長を許すことができなかった。そして、その恨みを子孫に語り継いできたこと誰が責めることができましょうか?こんなことは薩長人は語り継いでくるはずもありませんよね。

この話には続きがあります。

会津戦争の後、幕府軍の生き残りたちは函館五稜郭に立てこもりました。

実はこの時も薩長会津でしてきたことと同じことをしたのでした。

この函館戦争においても、薩長幕府軍側の戦死者を葬ることを許可せず、遺体の腐敗がひどかったそうです。

このときは戦後函館のある寺の僧侶が遺体を収容して懇ろに葬ったそうです。

人として最低限の死者に対する思いやりがなかったことが不思議としか言いようがありません。

人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として

さらにその後に起こった西南戦争のとき、明治政府軍の中に多くの会津出身者がおり、会津戦争の恨みを晴らしたいと、命を惜しまず西郷軍に向かっていったということが目立ったということです。