読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hachiko28’s blog

世の中のなんか変だなや、これってどうなの?と思うことなどの記事を書いています

料理の名前をレシピって言うのはおかしくないか?

レシピとはrecipeのことで、三省堂大辞林によると①料理の作り方、②処方箋を意味すると記載されています。

ところが、テレビでは料理そのもののことをレシピと言っているのを毎日のように目にし、耳にしています。料理の名前はメニューでいいではありませんか?

どうしてこんな簡単なことがいい加減に毎日連呼されているのか?英語圏の国から来ている外国人は笑っている事だろうと思いますが。どうなんでしょうか?

緊急雇用対策事業っていったい何だったんだ

私は、平成20年から始まった失業対策のための国の緊急雇用対策事業を延10件以上手掛け、延50人以上の雇用を創出してきた実績があります。

この事業は失業者に対して半年から1年の短期間の雇用の場を提供してその間に新しい正規雇用を求めさせるという目的で始められたものでした。

しかし、大都市ではその期間に正規雇用される機会が豊富であったかもしれませんが、地方では、半年や1年の期間で正規雇用に繋げるというのは極めて困難な状況にあり、私がこの事業で雇用した人々の中で、与えられた期間の後、正規の雇用を獲得できた人々は極めて稀でありました。そのため、事業期間が満了すると国の定めた事業の制度では解雇を余儀なくされるのでした。

つまり、事業の為に雇用され、職を得たのもつかの間、半年や1年で解雇され、単に面子を入れ替えただけの雇用と解雇の繰り返しをしてきたに過ぎないのです。

これでは何の意味もないと思いました。

そこで、私はせっかく縁あって私の会社に就職してきた人々を事業の制度上解雇しなければならないのでは、何の意味もない。と考え、何とか雇用を継続する方法がないものかと模索しました。

結果得た結論は新たに別の事業を立ち上げ、そちらからの収益で雇用を維持するしかないということでありました。

そうして、今となってはいささか無謀ではありましたが、新規に事業を起こし、2年ほどその事業を実施しました。

ところが、その事業は思ったほどの収益を上げることが出来ず、結果として緊急雇用事業の継続すら覚束ない状況に陥り、結果全ての事業が破たんして自己破産に追い込まれてしまいました。結果多くの人々に迷惑をおかけしてしまったことが悔やまれます。

仏教の法事に欠かすことのできない数珠

数珠とは仏事にお経を唱える際に用いる仏具の一つです。

お経を唱えた回数を数珠の珠で数えるため、念珠(ねんじゅ)とも呼ばれ、ずずと呼ばれることもあるようです。

数珠の読み方ですが、数は「すう」ですし、珠は「しゅ」と読みます。

となると数珠は、「じゅず」ではなく「ずじゅ」ではないでしょうか?

推測するに、「ずず」と呼ばれていたのが後に「じゅず」と呼ばれるようになりお経の回数を数える珠だから「数珠」の漢字があてはめられるようになったのではないでしょうか?でも、文字だけを見れば数珠は「ずじゅ」ですよね?

吉川英治さんは新平家物語の中で、じゅずに「珠数」の文字を使用しています。

もっと深い意味もありそうなことですが、浅学の私が考察してみました。

仏教関係の方からご教示頂ければ幸いです。

 

もし家康と淀君が結婚していたら歴史はどうなっていただろう?

磯田道史さんのように歴史のIF?に大胆に挑戦してみました。

秀吉の死後、大阪城西の丸に入った徳川家康淀殿の間に男女の関係があったが長続きしなかったと山岡荘八氏の徳川家康の中に出てきます。

これがもし、長続きして、淀殿が当時正室の居なかった家康の正室になっていたら歴史はどうなっていたでしょう?

そうなると、家康は大阪城に居続けて政務を見ていたでしょう。

当然秀頼は成長後関白になります。自分の子供は可愛いので、秀忠は江戸で征夷大将軍になります。

そして、国家の政治の中心は家康の居る大阪になり、江戸は豊臣の意向を反映しながら全国の武士を束ねる征夷大将軍の居城するまちとして、大阪とは違う繁栄をします。

となると、政治の中心である大阪は代々豊臣家が支配していくことになります。

ですから、豊臣と徳川はその後婚姻関係を重ね、非常に強い血縁関係が構築され、極めて近しい親戚関係となり、争いが起こりません。

そうして、そのまま、大阪は日本の中心であり続け、外国との関係に非常におおらかな豊臣政権では幕末に生じた攘夷思想は発生せず、緩やかに外国に対して国を開きながら進みますので、急激な維新は起こらず、開国がなされ、大阪商人が海外に乗り出して行って、もっと早く外国の進んだ技術や文化が入って来ていたと思われます。

すると、首都は東京ではなく大阪になっていたであろうことは疑う余地がありません。

そうして、標準語は大阪弁になっていて、「ほんまでっか?よろしゅうおます」などという言葉を全国の知識人は話していたことでしょう。

江戸は東京とならず、そのままずっと江戸と呼ばれていたかもしれませんし、あるいは東の大阪で東阪となっていたかもしれません。

さらに言うならば、日本という国は大阪のネアカな文化が波及して、もっと明るく楽しい国になって、諸外国との外交ももっとフランクで親しみのある国際交流が行われていたのではないでしょうか?そして大阪商人の活躍で、経済も大いに発展し、世界経済の最先端を突っ走っていたのではないでしょうか?すると第二次世界大戦への参加も回避されていたかもしれませんし、参戦しても適当に切り上げて早く終息し、広島・長崎の原爆投下も回避できていたかもしれませんし、戦争犠牲者の数も大幅に少なくて済んだ可能性だって想像されます。

もし、徳川家康淀殿が結婚していたなら、もっと伸び伸びとした明るい日本になっていたかもしれず、そうならなかったのは残念というのは言い過ぎでしょうか?

どう思われますか?

ご意見を承れれば幸いです。

買い物弱者救済と商店街活性化のための御用聞き型商品宅配事業

高齢化社会の進展が著しい今日、加齢や身体的不調などにより買い物に出ることが困難な高齢者が増えてきています。

このことは商店街まで足を運ぶことができにくい人々が増えていることを意味し、結果商店街の商品が売れなくなることを意味しています。

そこで、商店街が高齢者宅を御用聞きに訪問し、注文を受けて商品を販売するというのが「御用聞き型商品宅配事業」です。

御用聞きに行き、配達にも行くということは手間がかかりますが、話し相手を求めている独居老人にとっては、貴重な対話の場であるとともに、高齢者の見守りという機能も果たすことができます。そして、商品の販売ができるという商店街にとっても、地域住民にとっても、さらには福祉の充実を図りたい行政にとっても3者三様に都合の良い事業であるといえます。

事業継続の問題は採算性にあります。

特に人件費は手間のかかる分膨らみがちになりますし、商店街や住民に負担を強いるのも問題です。

だから、甘えすぎるのはいけませんが、やはり行政の継続的支援がどうしても必要になります。

ブームになりつつあった100円商店街事業

山形新庄市で始まった100円商店街事業ですが、各地に広がりましたがなかなか継続できていないようです。

ポイントは、まず、100円商品から利益を出そうとしないこと

100円商品はいわば蒔き餌で、100円商品を餌にして店内へ客を誘引し、本命商品を売りつける。その工夫が「あきんど」の腕の見せ所です。

このような工夫ができる商店を作り出すことがこの事業の目的なのです。

そうしことに商店の意識を向けさせることができるか否かが主催者や企画屋の腕の見せ所。

こういうポイントに全体の意識を向けることができれば商店街としては大成功といえます。

しかし、本家の新庄でもこのポイントを徹底できていないのが残念です。

ただ、繰り返していればいいということではありません。

わかっていただけましたでしょうか?

お題「もう一度行きたい場所」

それはまだ東京で仕事をしていた頃、当時はリゾート法などという法律に日本全国が踊らされていた時代でした。

ご多分に漏れず、私が所属していた会社でもリゾートの企画をしておりました。

そんななかで、伊豆半島の急斜面にスポーツや森林体験のリゾート地を作り出す計画に携わっておりました。

その対象敷地の奥にその場所はありました。

斜面を登りきると通常は尾根に出るのですが、そこは広大に開けた窪地になっていて、樹木はほとんどなく、薄原に覆われ緩斜面に囲まれた大きなため池が窪地の中央部にでんと居座ったそれまでのうっそうとした森林とは全く異質の景観を呈しておりました。池の周囲の湿地には鹿らしき足跡が見られ、池面は秋の日差しにキラキラと輝き、美しさに我を忘れて佇み続けていました。そして我に返って最初に思ったことは、いつかここに家を建てて住みたい。毎日この景色を見ながら生活したいということでした。

結局その夢はかないませんでしたが、いつかもう一度あの場所に立ってその時の感動を再び味わいたいと時々思い出しては考えています。