hachiko28’s blog

世の中のなんか変だなや、これってどうなの?と思うことなどの記事を書いています

人生をうまくいかせるためのコツ

いろいろなスピリチュアル本に共通して書かれていること

人は人生の中でいろいろな人々に出会います。自分にとって好ましい人であれば何も問題ないのですが、そうばかりではありません。仕事上のいやな上司や同僚、できればそばにいてほしくない同級生など、みなさんありますよね?

でも、こうしたいやな相手を変化させることのできる技があるんだそうです。

それは、いやな相手に対して、心の中で愛を送りつづけるのだそうです。

別にそのいやな相手を愛しなさいというのではありません。

その人も実は好き好んで私に対して嫌がらせをしているのではない。その人にもいろいろ事情があって、ついつい私に対して嫌味なことを言ってしまっているのだ。心底私のことが嫌いなのではない。よくよく観察すればその人にもいいところもある。「言ってみればかわいそうな人なんだ」だったら、私のほうから一歩踏み出して、その人に対してプラスの感情を送ってみよう。と考えてみませんか?そしてそれを何回かやってみてください。

そうすると不思議です。これまでの私への接し方ががらっと変わってしまうんです。

中学でエネルギー保存の法則というのを習ったのを思い出してください。プラスの感情はエネルギーですから、他人にプラスのエネルギーを送ると、その当人からとは限りませんが、その当人を含め、全く別のほうからの場合もありますが、自分のところにプラスのエネルギーがやってくるのです。

このようにして、今では私の人間関係が大きく変貌を遂げました。

まあ、騙されたと思って試してみてください。

道路のガードレールって何から何をガードするの?

 

道路に設置してあるガードレールに触ってみてください。

車道と歩道の間にあるガードレールは車両から歩行者をガードするために設置されているものと考えられます。

しかし、触ってみると車道側は滑らかな曲面になっていて、車にやさしい構造になっていますが、歩道側は鉄板の角がむき出しになっていて、たとえば自転車で走行してそこに触れると切り傷を負ってしまう危険性が高く、歩行者も触れれば痛いのは言うまでもありません。

歩行者や自転車など交通弱者を守るためのガードレールであるはずなのに、この構造的欠陥は何十年も前から改善される気配がありません。

時々、円筒状のパイプでできたガードレールを見かけることがありますが、まだまだ大半は前述の形態のガードレールになっています。

どう思いますか?

都市計画用途地域の設定をもう少し住民本意にできないものか?

 

1992年の都市計画法建築基準法改正に当たり、北関東や山梨県の多くの市町村の用途地域見直し業務を受託実施した経験があります。

日本の都市計画の考え方の基本は、住宅地と工業施設、商業施設が混在すると住環境上思わしくないという観点から混在させずに、それぞれの施設をまとめる(これを整序と呼んだ)ことがいいのであるという思想でした。

これは、住宅地は住宅のみ、工業地帯は工場のみ、商業地域は商店のみ、農業地域は農地のみにするという考え方です。

これは確かに整然として見えるという点では理にかなっているのかもしれません。

しかし、人は、果たして住宅ばっかりの住宅地に住みたいでしょうか?

近くに買い物のできる商店も欲しいし、身近に緑を感じられたほうがいい、などそれぞれ、さまざまな好みがあります。

ところが、現行の用途地域指定は一本の線で、住宅地、工業用地、農地、緑地を区分してしまっています。

人の好みはそれぞれですから、市街地の中に業務機能や商業機能がある、都市としての快適性を望む人用の用途地域、広範囲に田園が広がる中に点在する宅地に住みたい人用の用途地域、宅地の中に樹林地を多く内在する身近に自然と触れ合える用途地域、森林地帯の中に住宅が点在する別荘地のような用途地域など、用途が混在することを楽しみたい人々向けの緩やかな用途地域などを加えることができたなら、日本人の多様な心理を満たすことができるのではないかと考えていますがいかがなものでしょうか?

ご意見をください。

久しぶりの歴史の話

戦国時代から江戸時代にかけて、有力大名や将軍の嫡子が生まれると、必ず乳母が付きました。そのため、生みの母親は、その子に自分の乳を与えることができず、いつもわが手に抱いて育てることもできませんでした。そのため、自分の手で育てることのできる第二子が生まれると、長男に掛けることのできなかった愛情も合わせて第二子に注いで育てるために段々に第二子に対する思い入れが募り、夫の跡継ぎには第二子のほうを立てたいと考えるようになり、夫に対してもそれをすすめるようになることは無理のないことといえなくもありません。

 ところがこれが往々にしてお家の大事を作り出してしまいます。それに賛同する家臣が現れたりして、家中を真っ二つに割るようなことがよくおこりました。

 その結果、そうした状況を回避するために長男は止む無く弟を殺害して自らを守らなければならなくなった例が多くあります。

 3例を挙げると

第一は織田信長が弟信行を病気を装って殺害しましたし、

第二には伊達正宗も弟小次郎を騙して誘い出し、殺害しました。

第三は徳川三代将軍家光は弟の忠長を切腹に追い込みました。

これらは、母の思いばかりでなく、家臣が企てた場合もありますが、乳母というしきたりがもたらした悲劇であると思わざるを得ません。

すぴりちゅあるな話その2

運をよくするための心がけ

■「俺ってすごい」を繰り返し言うと運がよくなる

斉藤一人、以下同じ)

・振動数を上げる→早いことをする、空元気

・振動数が高い人には悪いことが起きない

・素敵になる→なろうとすれば神が味方する

・他人をほめる人になる

・自分をほめられない人は人をほめられない

■豊かになるためには

・他人をひはんするより高く評価する

・望むことを楽しい範囲で考える

・気分がよくなる選択をする

・「宇宙よ私はもっと多くのお金を使うことができます」と唱える

・繁栄感を感じる練習

・幸福だと感じる練習

・望むものと波動を一致させる

・幸せなことが当たり前だ

・いかなる時でも物事を高く評価する

・ひとまず良い気分になる

 

 

スピリチュアルな話

宇宙には無限の富があり、宇宙は私たちすべての人間にそれを与えたいと望んでいるそうです。

しかし、人間は富がそう簡単に手に入るなんて信じられないと思っていたり、努力しなければ得られないと思い込んでいるだけだというのです。

ところが事実はそうではないらしいのです。

誰でも、いつでも富が手に入ることを自分に許しさえすれば富が得られるようになるのだそうです。

私も、どうも、努力することではないようですが、自分の心に許可を与えさせようとしています。

スピリチュアル関係の書籍やサイトを見ればどれにもそのことが記載されています。

全ての人類がそうなれば、戦争も起きないのですがね。

変なコマーシャルはやめてくれ

青森県のある酒造会社のコマーシャルで、「いい酒は朝が知っている」というのがあります。

要は、朝になればいい酒かどうかが実感できます。だからうちの酒はいい酒です。ということが言いたいのだろうと思われます。

でも、これは、主語が「いい酒」か「朝」」で、述語が「知っている」なわけですから、「酒が知っている」、「朝が知っている」のどちらにしても言いたいことが伝わりません。文法に詳しいわけではありませんが、変です。どこかのコピーライターが作ったコピーでしょうが、日本語になっていません。こんな変な言葉を公共の電波に乗せて発信するのはそろそろいい加減にやめてほしいものです。社内でも、なんかこのコマーシャルの文句は変じゃないかという声が上がらないのでしょうか?