hachiko28’s blog

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もし家康と淀君が結婚していたら歴史はどうなっていただろう?

磯田道史さんのように歴史のIF?に大胆に挑戦してみました。

秀吉の死後、大阪城西の丸に入った徳川家康淀殿の間に男女の関係があったが長続きしなかったと山岡荘八氏の徳川家康の中に出てきます。

これがもし、長続きして、淀殿が当時正室の居なかった家康の正室になっていたら歴史はどうなっていたでしょう?

そうなると、家康は大阪城に居続けて政務を見ていたでしょう。

当然秀頼は成長後関白になります。自分の子供は可愛いので、秀忠は江戸で征夷大将軍になります。

そして、国家の政治の中心は家康の居る大阪になり、江戸は豊臣の意向を反映しながら全国の武士を束ねる征夷大将軍の居城するまちとして、大阪とは違う繁栄をします。

となると、政治の中心である大阪は代々豊臣家が支配していくことになります。

ですから、豊臣と徳川はその後婚姻関係を重ね、非常に強い血縁関係が構築され、極めて近しい親戚関係となり、争いが起こりません。

そうして、そのまま、大阪は日本の中心であり続け、外国との関係に非常におおらかな豊臣政権では幕末に生じた攘夷思想は発生せず、緩やかに外国に対して国を開きながら進みますので、急激な維新は起こらず、開国がなされ、大阪商人が海外に乗り出して行って、もっと早く外国の進んだ技術や文化が入って来ていたと思われます。

すると、首都は東京ではなく大阪になっていたであろうことは疑う余地がありません。

そうして、標準語は大阪弁になっていて、「ほんまでっか?よろしゅうおます」などという言葉を全国の知識人は話していたことでしょう。

江戸は東京とならず、そのままずっと江戸と呼ばれていたかもしれませんし、あるいは東の大阪で東阪となっていたかもしれません。

さらに言うならば、日本という国は大阪のネアカな文化が波及して、もっと明るく楽しい国になって、諸外国との外交ももっとフランクで親しみのある国際交流が行われていたのではないでしょうか?そして大阪商人の活躍で、経済も大いに発展し、世界経済の最先端を突っ走っていたのではないでしょうか?すると第二次世界大戦への参加も回避されていたかもしれませんし、参戦しても適当に切り上げて早く終息し、広島・長崎の原爆投下も回避できていたかもしれませんし、戦争犠牲者の数も大幅に少なくて済んだ可能性だって想像されます。

もし、徳川家康淀殿が結婚していたなら、もっと伸び伸びとした明るい日本になっていたかもしれず、そうならなかったのは残念というのは言い過ぎでしょうか?

どう思われますか?

ご意見を承れれば幸いです。