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またまた歴史のIFを大胆推理
もし平家が源頼朝の命を助けなければ滅亡せずに済んだのだろうか?
平治の乱で、源氏は平家に敗れ、捕われた源頼朝は平清盛の義母、池の禅尼の懇願により命を助けられ、後に平家を滅ぼしたという歴史の事実があります。
そのため、もし、このとき頼朝を助けずに殺害しておけば平家は滅びずに済んだのではないかということが、語られてきています。
果たしてそうでしょうか?
私は、もし、頼朝を殺していても何れは平家は滅んだのではないかと思っています。
理由は、平治の乱で勝利した平家は、それまで、朝廷を思うままに操り、栄華を恣(ほしいまま)にしてきた藤原氏にとって、平家にその立場を奪われてしまったことは許し難く、何としてでも再び栄華を取り戻したいと思っていたであろうし、平家憎しの気持ちも半端でなかったことは察せられます。
また、平家によって院政を制限された後白河法皇も院政の回復を画策していたようですので、何かの機会に平家を滅ぼしたいと思っていたに違いありません。
さらに、頼朝の父義朝とその一族のいわゆる源氏の嫡流は滅びましたが、その血脈につながる一族や家臣団は関東を中心に多く残存していました。
しかも、彼らは源氏嫡流を滅ぼされた敵である平家をいつかは倒そうと臥薪嘗胆して武力を磨いていたわけですから、このような隠れ源氏と藤原氏や後白河法皇との結びつきができれば、頼朝がいなくても反平家で団結して立ち上がり、その中の誰かをリーダーに担ぎ出して、いずれは平家を倒したであろうことは想像に難くありません。
特に、平家の武者たちは貴族化し武術の鍛錬を怠って数十年を過ごしていたわけですから、坂東武者の敵ではなかったはずです。
もし、義経が居なかったとしても平家の世は長続きはしなかったであろうと推測できます。
いかがおもわれますか?
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歴史的に見てもロシアと中国のやり方はひどい
中国は元々独立国家であった現在のチベット自治区に軍隊を送り込み多くのチベット人を虐殺の上、自国の領土としてしまいました。この時、チベット政府は国連にこのことを訴えましたが、国連はそのころに発生していた朝鮮戦争への対応に追われ、この問題に介入することが出来なかったそうです。
また、中国はこのチベット自治区を足掛かりにして隣接するブータンの北西部にも中国人民軍を送り込み、兵庫県とほぼ同じ広さの約8000平方キロメートルのブータン領を自国の領土としてしまっています。
そして、今問題になっている海洋進出では、日本を始め、ベトナムやフィリピンとの間で東シナ海の島々を巡る争いを続けています。
ロシアは2014年3月にウクライナ領であったクリミア半島を不凍港確保を目的に併合し、さらに現在ではヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれ、鉄鉱石や石炭などの自然資源を豊富に保有するウクライナ東部地区の自国への取り込みを画策していることは世界中の周知の事実となっています。
過去にもロシアはそのようにして領土拡張を進めてきたわけですが、日本との関係でいうと、日露戦争後に締結されたポーツマス条約で北緯50度以南の領土を永久に日本に譲渡すると決めていながら、第二次大戦末期のどさくさに紛れて北方領土に侵攻して併合してしまいました。
このように、中国やロシアは軍事力を背景にして自国周辺に侵攻するという既成事実を作り、その後に一方的に併合を宣言するという、国際的良心から逸脱する行為をやってしまう言わば恥知らずな国であることは歴史が証明し、世界中がそのことを目の当たりにしてきています。
さて、こんな国を隣国に持つ我が日本は、今後どうやってこの恥知らずな国と付き合っていけばいいのでしょうか?
とはいえ、日本も過去には朝鮮併合をした国ではありますが?
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またまた商店街活性化のための企画です
その名も
「地域の人々の人生の節目節目を商店街こぞってお祝いいたします」事業です。
これは、地域住民と商店街との密着度を高める事業です。
誕生日、結婚記念日、卒業、金婚式などの各家庭の祝い事を商店街全体でバックアップする事業で、それまで知らなかった商店の新たな魅力に気づいてもらったり、その結果新たな商品販売につなげていくことのできる事業です。
しかし、ポイントはこれも、各商店のやる気次第にあります。
裏返せば各店のやる気を引き出す事業であるといえます。
興味のある方はお問い合わせください。
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日本人の多くは津軽民謡や津軽三味線などで、青森県について知っていて、だから青森県イコール津軽だと思っていませんか?
実は今の青森県は江戸時代大きく分けて津軽藩領の「津軽」と南部藩領の「南部」に分かれていました江戸時代より前は今の青森県全域が南部家の領地であった時代がありました。
それを秀吉から家康にかけての全国統一の過程の中で、南部家の一族で当時津軽地方の一代官に過ぎなかった津軽為信が津軽地域を南部領から独立させて津軽藩祖となったのでした。
だから、南部にしてみれば元々一族であったのに津軽を横領した。
その事実を公にしたくない津軽は、南部一族であったことをひた隠しにしてきたという歴史があります。
そのしこりが今ではだいぶ薄れてきましたが何かの拍子に対立となってしまうことが今でも時々起ります。
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緊急雇用対策事業っていったい何だったんだ
私は、平成20年から始まった失業対策のための国の緊急雇用対策事業を延10件以上手掛け、延50人以上の雇用を創出してきた実績があります。
この事業は失業者に対して半年から1年の短期間の雇用の場を提供してその間に新しい正規雇用を求めさせるという目的で始められたものでした。
しかし、大都市ではその期間に正規雇用される機会が豊富であったかもしれませんが、地方では、半年や1年の期間で正規雇用に繋げるというのは極めて困難な状況にあり、私がこの事業で雇用した人々の中で、与えられた期間の後、正規の雇用を獲得できた人々は極めて稀でありました。そのため、事業期間が満了すると国の定めた事業の制度では解雇を余儀なくされるのでした。
つまり、事業の為に雇用され、職を得たのもつかの間、半年や1年で解雇され、単に面子を入れ替えただけの雇用と解雇の繰り返しをしてきたに過ぎないのです。
これでは何の意味もないと思いました。
そこで、私はせっかく縁あって私の会社に就職してきた人々を事業の制度上解雇しなければならないのでは、何の意味もない。と考え、何とか雇用を継続する方法がないものかと模索しました。
結果得た結論は新たに別の事業を立ち上げ、そちらからの収益で雇用を維持するしかないということでありました。
そうして、今となってはいささか無謀ではありましたが、新規に事業を起こし、2年ほどその事業を実施しました。
ところが、その事業は思ったほどの収益を上げることが出来ず、結果として緊急雇用事業の継続すら覚束ない状況に陥り、結果全ての事業が破たんして自己破産に追い込まれてしまいました。結果多くの人々に迷惑をおかけしてしまったことが悔やまれます。
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仏教の法事に欠かすことのできない数珠
数珠とは仏事にお経を唱える際に用いる仏具の一つです。
お経を唱えた回数を数珠の珠で数えるため、念珠(ねんじゅ)とも呼ばれ、ずずと呼ばれることもあるようです。
数珠の読み方ですが、数は「すう」ですし、珠は「しゅ」と読みます。
となると数珠は、「じゅず」ではなく「ずじゅ」ではないでしょうか?
推測するに、「ずず」と呼ばれていたのが後に「じゅず」と呼ばれるようになりお経の回数を数える珠だから「数珠」の漢字があてはめられるようになったのではないでしょうか?でも、文字だけを見れば数珠は「ずじゅ」ですよね?
吉川英治さんは新平家物語の中で、じゅずに「珠数」の文字を使用しています。
もっと深い意味もありそうなことですが、浅学の私が考察してみました。
仏教関係の方からご教示頂ければ幸いです。