hachiko28’s blog

世の中のなんか変だなや、これってどうなの?と思うことなどの記事を書いています

難易度が高いっておかしいべ?

日頃よく耳にする言葉に「難易度が高い」というのがありますが、度合いが高い・低いというのは一定方向のものに対して用いるものであり、双方向を示す難易には高いも低いもないはずです。難度が高い低いというのはいいし、あまり使わないが易度が

高い・低いも言葉としてはあり得ます。難易度が高い・低いというのはおかしい。

全ての選択肢は机の上にあるを全面的に支持するとは?

日本政府は北朝鮮への対応について「全ての選択肢は机の上にある」とする「アメリカ政府の立場を全面的に支持する」としていますが、これってよく考えるとちょっと変じゃあないですか?国家として全面的に支持すると表明するからには支持する対象を明確に精査し、そのうえでの支持でなければ国民に対しての責任が果たせません。アメリカが言っている机上の選択肢には具体的に何と何と何があってそれぞれをアメリカが選択した場合に、それによって日本はどんな影響が及ぶかが考えられ、その際、日本政府はどのような対処をし、国民にどんな覚悟を求めるのかを決定したうえで、それら全ての選択肢を支持するというのでなければ、国際的な信用に関わりますし、国民に対する誠意もないことになります。とすれば、極めて安易な支持表明と言わざるを得ません。この支持表明は仲良し国家間の、仲良しだから何でも支持し、協力するという子供じみた表明と言わざるを得ません。何と無責任な政権なのでありましょうか?

学識経験者って何者?

学識経験者という言葉をよく耳にします。

学識経験者っていったいどんな人のことを言うのでしょうか?

学識者とは大学などで専門知識を得たり、研究しているある分野について専門的知識を有している人のことを呼ぶのだと思われます。

一方、経験者とは、読んで字のごとく、何らかの分野について携わった経験のある人のことを呼ぶものだと思われます。

だから、学識者と経験者は本来違うものであるはずです。しかし、中には多くの学識を積んだうえで、その分野に携わり、経験も有している人も中にはいないことはないと思われます。

しかし、そうした人は極くわずかしかいないはずです。しかも、学識者と経験者ではお互い目指すものが異なっているはずですから、それぞれ自分は学識者であるとか経験者であるという自覚を持っているはずです。それをひとからげにして、学識経験者と呼んでいるのは主に、行政の担い手である役人が会議を開く際に招へいする場合が多いのに気づくでしょう。

つまり、そうした役人たちが、そのあたりを明確に意識できていないため、ひとからげにした言葉を用い、それをマスコミが鵜呑みにして報道しているという図式になっているものであります。

もう少し、日本語をちゃんと使ってほしいものです。

こうした作文を披露している私も大いに注意したいものです。

 

バツ1、バツ2とバツは離婚の度に増えるというのは大いなる誤りです

世間では、離婚する度にバツが増えると考えられていますが、実はそうではありません。

そもそも、このバツとは戸籍謄本の戸籍から抜けた時に戸籍謄本の名前にバツ印がつけられるものです。

では、戸籍から抜けるとはどういう場合のことでしょう。一番わかりやすいのは死んだ時、死ぬと戸籍がなくなりますから戸籍にバツ印がつきます。あとは、おそらく養子になり、親の戸籍から抜けた時。そうそうこの親の戸籍から抜けるとバツ印がつきます。

そのほかどういうときに親の戸籍から抜けますか?そうです、一般に女性が結婚して夫の戸籍に入ると、親の戸籍に書かれていた自分の名前にバツ印がつくのです。さらには、夫のほうも結婚すると新たな戸籍が作られるため、親の戸籍から抜け、親の戸籍にあった自分の名前にバツ印がつけられ、除籍になります。

つまり、離婚してバツ印がつくのは夫の戸籍の自分の名前にバツがつくということなのです。ですから、Aさんと離婚して一たん親の戸籍にもどり、次にBさんと再婚し、その後Bさんとも離婚すると、まず、Aさんと結婚した際に親の戸籍にバツ印が付きます。(バツ1回目)、そして、Aさんと離婚した時にAさんの戸籍にバツが付きます。(バツ2回目)次にAさんと離婚して親の戸籍に復し、Bさんと再婚すると親の戸籍にバツが付きます。(バツ3回目)そして、Bさんと離婚した時、Bさんの戸籍に書かれていた名前にバツが付きます。(バツ4回目)

このように、2回離婚すると戸籍上はバツ2ではなく、正確にはバツ4であるということになります。今の説明、少し間違っている部分や、離婚後親の戸籍に戻らなかった場合などで少し事情が違うかもしれませんが、少なくとも、離婚の回数だけバツが単純に増えるのではないということをご理解いただきたいのでした。

 

高校球児の思い

私も甲子園を目指して3年間野球をやりました。

敗れてその先に進むことができなくなった時に学年ごとにいろいろな思いに至ったことを思い出します。

まず、1年生の時は、4月にその高校で野球を始めてまだ日が浅く、3年生のこともあまりわからない状況で、敗れたその日の感慨もあまりありませんでした。

2年生の時は3年生はこれでもう高校野球ができなくなるんだという思いと、これでもう一緒に野球ができなくなるんだという思いに打ちひしがれたものでした。

自らの最後となった3年の時は何か呆然として、これで終わったかとしみじみ感じていたのを覚えています。

 

戦争いやだ

 

8月15日も過ぎてしまいました。戦争の悲劇をまたまた再認識させられました。

皆で声を上げようではありませんか?戦争はもう二度といやだ。

だから、戦争をしやすくする憲法改正も大反対だと。

あの戦争で失った尊い犠牲があったからこそ、今の繁栄があるなんてうそっぱちだ。

あの無駄な犠牲で尊い命が失われなかったら、その人々の手によって、今よりもっと素晴らしい日本が出来上がっていたに違いない。

あたら、有為な人材を見通しを誤った政治家と無能な指揮官の愚かな命令で死ななければならなかった人々の無念に思いを致し、戦争を拒絶しよう。

 

高校野球の県外出身者の割合に基準を設けてはいかがでしょうか?

高校野球の熱戦に興奮しています。

しかし、県外出身者を多く抱えるチームが強いのはいかがなものでしょうか。

私の地元にもベンチ入りの大部分が関西出身者で占められ、勝利インタビューでは関西弁で語るというのに非常なアレルギーを催します。県の代表チームならば県出身選手かせいぜい隣接県出身者であってほしい。それが地元の人々の偽らざる気持ちです。地元の選手が出場するから地元として応援したいんです。遠い関西出身者が大部分のチームなんて地元のチームじゃあありません。そんなチームが甲子園で優勝したってちっとも嬉しくありません。わが県では数十年前に地元の選手と指導者で出場して準優勝したことがあります。ところが、関西人で成り立つ外人寄せ集めチームが近年準優勝しました。同じ準優勝でも価値がまるで違います。地元のチームじゃあないんですから。こんな批判を受けるような学園経営が如何なものか?です。選手が悪いのではありません。学校が悪いんです。100歩譲って指導者は強豪地域から招へいしてもいいじゃあありませんか?でも、選手は地元選手じゃあないと。

ご意見ください。