hachiko28’s blog

世の中のなんか変だなや、これってどうなの?と思うことなどの記事を書いています

明治維新の戊辰戦争について

 戊辰戦争と言えば官軍である薩摩・長州軍が会津を攻めたことで有名ですが、数十年前、確か萩市から、会津若松市に対して最早過去の憎しみを乗り越えて友好を結びましょうというアプローチがあったのに対して会津若松市はつれなく拒絶したということがあったように記憶しています。未だあの恨みは忘れられないということなのだろうと思ったことを覚えています。

その後、戊辰戦争のことについて知る機会があり、会津の人々の心には到底拭い去ることのできない言い伝えがあることを知りました。

それは、会津戦争では官軍側も会津側も多くの戦死者を出しました。戦争終結後も会津領内には夥しい戦死者の遺体が累々としていたようです。勝った官軍側は味方の死者を速やかに回収し手厚く葬ったようです。

ところが会津兵の遺体を葬ることを薩長は許さず、同朋の遺体が腐乱していくのをただ遠目に眺めるより仕方がなかったということです。

死せる人間を葬ることを許さず、敗者の人間の尊厳を踏みにじる行為を強要した薩長を許すことができなかった。そして、その恨みを子孫に語り継いできたこと誰が責めることができましょうか?こんなことは薩長人は語り継いでくるはずもありませんよね。

この話には続きがあります。

会津戦争の後、幕府軍の生き残りたちは函館五稜郭に立てこもりました。

実はこの時も薩長会津でしてきたことと同じことをしたのでした。

この函館戦争においても、薩長幕府軍側の戦死者を葬ることを許可せず、遺体の腐敗がひどかったそうです。

このときは戦後函館のある寺の僧侶が遺体を収容して懇ろに葬ったそうです。

人として最低限の死者に対する思いやりがなかったことが不思議としか言いようがありません。

人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として、人として

さらにその後に起こった西南戦争のとき、明治政府軍の中に多くの会津出身者がおり、会津戦争の恨みを晴らしたいと、命を惜しまず西郷軍に向かっていったということが目立ったということです。